この数字は、算数が合いません。
リカイドの推し活編の2択「沼への入口は?」に2,308人が答えて、「自力で落ちた」が87%、「布教で落ちた」が13%。推し活編の100問を偏りの大きい順に並べると7番目に入る、かなり寄った一問です。ほとんどの人が、推しは自分で見つけたと答えている。
いっぽう、同じ推し活編の「布教は?」を見ると、「ガンガンしたい」が55%、「そっと推したい」が45%(約1,800人)。そもそも選択肢が両方とも布教する前提で書かれています。「周りに推しは?」では「公言してる」が81%(約2,400人)。「友達の布教は?」でも「ちゃんと履修」が59%です(約1,500人)。


布教は届いている。ただし「落ちた」とは呼ばれない
布教が空振りしているわけではなさそうです。8割が推しを公言し、6割近くが友達のすすめをちゃんと履修している集団で、布教のきっかけだけが13%まで縮む。ここには、きっかけと沼落ちを別々に数えている感覚がありそうです。
順番を想像してみます。友達が延々と語ってくるので、名前と顔だけは覚える。それから半年後、たまたま流れてきた切り抜きを最後まで見てしまう。気づいたら過去の配信を遡り、グッズの再販情報を調べている。この人に「誰の布教で落ちた?」と聞いても、答えは「自分で落ちた」になるはずです。知った日と落ちた日のあいだに時間が空くほど、入口の記憶は自分のものになる。布教は入口を開けただけで、中まで歩いたのは自分だ、という感覚は、おそらく間違ってもいません。



「日付で言える」のは39%だけ
その時間差を裏づけそうな数字が、同じ推し活編にあります。「沼落ちした日は?」は「日付で言える」が39%、「覚えてない」が61%(約2,000人)。
自力で落ちたと答えた人が87%いるのに、落ちた日を特定できる人は4割に届きません。沼落ちは、瞬間ではなく期間として起きているということでしょう。日付で言える39%のほうは、初めて現場に行った日やデビュー配信のように、外から日付が与えられている人が多そうです。
こうなると、自力か布教かという二択は、事実の記録というより記憶の整理のしかたを聞いていることになります。人は自分にとって良かった出来事を、自分の判断や努力のおかげだと説明しやすい傾向があるとされています。自己奉仕バイアスという言い方で知られる話です。推しに出会えたことが人生の良い出来事である以上、その入口も自分の功績として保存されやすい。悪気のある嘘ではなく、記憶のほうが勝手にそう並べ替えている可能性があります。
「布教で落ちた」を選んだ13%のほう
少数派の13%には、いくつかの型が混ざっていそうです。友達に強引にチケットを取られて現場へ連れて行かれ、その日のうちに落ちた人。布教の熱量そのものに感染して、まず友達を好きになってから推しに移った人。単純に、記憶に正直な人。
見落とせないのは最後の型です。自力だと答えた87%のうち何割かは、布教されたことを忘れているだけかもしれません。だとすると、この13%は「布教で落ちた人の割合」ではなく、「布教されたことを覚えている人の割合」に近い数字ということになります。少数派のほうが、記録としては正確な可能性がある。
推し活編の2,308人という条件
この数字の出どころも書いておきます。推し活編はリカイド本体の全ジャンル版には含まれない、専用ページだけの100問です。恋愛や日常の質問が数万人規模で答えられているのに、推し活編がどれも2,000人前後なのはそのためです。
答えているのは、推し活編という看板を見て自分から入ってきた人たち。すでに沼の中にいる自覚がある層です。沼落ちを「事故」ではなく「自分の選択」として語りたい気持ちが、この層ではとくに強く出ても不思議はありません。もし推しがいない人にも同じ質問をしたら、布教側の割合はもう少し上がるはずですが、そもそも入口を聞かれても答えようがないので、この質問は沼の中でしか成立しません。
自分がどこから落ちたのかは、案外あやしい。心当たりのある友達には、一度確かめてみると話が長くなります。